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− 特 集 −
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成人の日特集
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遠い昔の過ぎた日のあなたにも、つい先日のキミたちにもささげます。
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●『二十歳の原点』(高野悦子 新潮社)
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今年、団塊の世代と呼ばれる五十五歳前後の人たちの多くが定年退職を迎えるという。
団塊の世代の団塊とはいわゆる第一次ベビーブームに生まれた塊、またやっと団地を手に入れられた世代などと揶揄されたりもした。その彼らが大学に入学したのは一九六○年代後半、ほぼ全国の大学に吹き荒れた全共闘運動の嵐の真っ只中だった。六九年、京都の立命館大学三年生だった高野悦子さんは「買ってきた睡眠薬は不眠症には二錠が適量だという。それでは「不信症」には何錠がよいのだろうか」と日記に残した数日後に自ら死を選んだ。
彼女の自殺の原因が闘争の敗北、幻滅、失恋なのかについては誰にもわからないし三七年も経た今でもネット上で論議されている。仙台の実家で悶々と浪人生活を送っていた十九歳の時、友達の家でこの本と出合った。実際読んだのは翌年入学したあと、テレビもない高円寺の下宿だった。彼女たちの時代から一○年後の学生だった。この本を読んだからといって別に学生運動を求めようとは思わなかったが、エンタティナから社会的な本への読書傾向の変化となった。小田実、高橋和巳などが本棚に並ぶようになった。「二十歳の原点」を読んで多少なりとも“考える青年”だった学生生活を送れた意味でこの本に感謝している。今の歳になってしまうと、転機すべき人生や考え方というようなものがもう無い気がするが、もしこの本との出合いが無かったらどうだったろうと思うと意外に素直な性格になっていたりして。団塊の世代の先輩たちはへそ曲がりで天の邪鬼ですからね。(読も木)
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●『人間喜劇』(ウィリヤム・サロイヤン 晶文社)
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うーん、昔過ぎてあまり記憶に残っていないけれど、本や音楽に本格的に接しはじめた時かなあ。他には、高校生の時に見ていたテレビドラマ、「大草原の小さな家」の再放送にものすごい感化されていた様な気がします。
そう、アメリカが好きでした。音楽ならアメリカン・ロックだ、川ならミシシッピ・リバーだ、といった風に。いかにもアメリカ的な家族や友人の「絆」みたいなものを、カッコイイ、と思っていた時期でした。
そんな影響が読書の傾向にもあらわれていたわけで、愛読していたのはウィリアム・サロイヤン(=サローヤン)「人間喜劇」。
1943年に書かれた本書は、アメリカは架空の町、イサカを舞台にした物語。主人公のホーマーは、14歳にして貧しい家庭を背負う電報配達人。仕事を通して人々の喜びや悲しみを知ってゆく。世の中は戦争の真っ只中。そして、ホーマーに兵隊の兄、マーカスの戦死通達を家族へ届けに行かなくてはならない日が来る・・・。
著者はアルメニアからの移民の子としてアメリカで生まれました。彼の作品のすばらしいところは、内容はもちろん、移民の子ならではの、いわゆる「他者−よそもの−」に対する優しいまなざしです。
たとえば、高等学校の体操教師がイタリアから来た生徒に「ウオツプ(イタ公)」とどなると、すかさず校長先生が「(アメリカでの)他者−よそもの−は、ここがアメリカであると忘れた人たちだけ」と切り返すシーン。本当の意味でのヒューマニズムがこの物語の中にあふれています。
悲しみと希望を抱いて海を渡ってきた移民たちを受け入れようとする時代のアメリカを想像して、これまた本格的に覚えはじめた酒を片手に、まだ飲み慣れていないものでゲーゲー吐きながら、カッコイイ、と憧れていたハタチの頃、でした。
もし本書が気に入れば、同じサロイヤンの「わが名はアラム」も是非。1940年作の半自伝的な作品で、「人間喜劇」と甲乙つけがたい魅力でいっぱいです。(紅朗)
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− 青春時代に読んでおきたい本 −
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青春というものにもし「旬」があるとすれば、それはまさにその年齢の心でなければできないこと、仮に、できたとしても心から楽しむことができない事柄が、世の中にはたしかにある、ということでもある。
本を読むという行為にも、似たようなものがある。それは、まさにその年齢のときに読んでおきたい、それぞれの本がもつ「旬」というものである。たとえば、恩田陸の『夜のピクニック』に登場する高校生が、ファンタジー小説である「ナルニア国物語」を、「もし中学生のときに読んでいれば」と思わずにはいられなかったような、そんな「旬」だ。
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『ぼくは勉強ができない』 (山田詠美 新潮文庫)
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私が山田詠美の『ぼくは勉強ができない』という小説を読んだのは、すでに社会人になってからのことであるが、もしこの小説を、自分が高校生のときに読んでいたとしたら、私がこの本から受けた感動はもっと鮮やかなものになっていたに違いない、という確信がある。なぜなら本書は、いわゆる「勉強ができる子」という価値観だけを押しつけようとする学校教育に対するアンチテーゼ、「それだけがすべてではない」という価値観の多様化を意識して書かれた作品であり、私が当時、他ならぬ「勉強ができる子」であることにしか価値を見出せない高校生であったからだ。
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同じような作品として、三田誠広の『いちご同盟』がある。これも読んだのは大人になってからであるが、もし中学生のときにこの小説を読んでいたなら、もっと本書の登場人物たちに感情移入できたのではないか、と悔やまれる内容である。タイトルの「いちご」とは「15」という数字。まさに十五歳の少年少女の青臭い、しかしどこか懐かしい思春期特有の雰囲気を見事にとらえた本書は、その重いテーマとともに同じ思春期の読者の何かに訴えるに違いない作品なのだ。
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『いちご同盟』 (三田誠広 集英社文庫)
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たとえ同じ本であっても、読んだときの印象が大きく異なってくる。それもまた読書の面白みのひとつではあるが、できれば「旬」を逃さないような読書をしたいものである。
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